
Gate
以前、私は不思議な写真を撮りました。しかし撮る時に私には何がどう写るかは分かりませんでした。ただいつも通り何か好きなもの、面白いものがそこにあるという感覚をもとに撮り、結果としてそこには特異なものが写っていました。
2019年に入ってからは『地底の夜』の写真を撮り始め、何日も何日も夜がやってくるたびに撮り歩き、徐々に「その世界に入っていく」という感覚を覚えることが度々あると思うようになりました。それは何の気なしにふと感じるものです。電車を降りた瞬間、橋を渡るとき、ただ飲み物を買いにコンビニに寄った瞬間……
風景写真を撮る方、ストリートスナップを撮る方にはよくある感覚なのかもしれません。環境と自分の対峙のような。
少し目が覚めるような感覚に近いです。私が話を伺った写真家の方は私の感覚が分かると仰り、「環境によっては撮れない」「入った後はいかにその環境に対して立ち向かわず、流れに乗りながら感応して撮るか」だと仰っていました。
その「世界」という場所・環境と自分自身との相性、流れという言葉が会話の中で飛び交いました。
目に見えない強大な世界に対しどう乗りこなすか。そこで何を見るのか。
私は占星術やタロットカード(プラス自分のカン)を使い、似たようなことをしますがカメラを手にしてもそれは同じです。
『地底の夜』はあの世界にギリギリ私は許されて通してもらっているという感覚がありました。
(恐らく「綺麗」、「美しい」と常に畏敬の念を抱いていたためなのではないでしょうか。
無人の場所が多いのですが、危険には一度も遭いませんでした)
『みえない月』ではその流れの中で愛さんと会いました。
この「入って、撮って、安全に出ていく」という感覚……
愛さんや他の写真家の方々、そして夜だけでなく昼の私の写真を見た方に時折「まるで異次元の世界のようだ」とお話をいただくことがあるたび、この感覚と少なからず関係があるように思えてなりません。
『地底の夜』は時空がひとつのテーマでもありました。二度と戻らない時空という感じです。
それは2019年というさまざまな時代の終わりと始まり、臨海地帯という「場所」、
東京の過去の災害と未来の災害、私たちが生きる「今」、
もしくは「東京オリンピック」という象徴的な祝祭を共通項として持つ
虚構と現実が交差する唯一のポイントだからだったのかもしれません。
そして今度は
自分自身と環境、時空の在り様が写真に作用しているなら、
その時空を定め、流れに乗って
写真に作用する瞬間を、撮ることは出来ないかと考えています。
それを考えるということ自体、そこには何かがあるのだと思うのです。
最近、自分自身が何重にも錠を掛けられた重い鉄の扉に寄りかかっているようなイメージが浮かぶ時があります。
非力な私と強大で堅牢な扉の対比はミスマッチではありますが……
それは絶対に開けられない扉でも何かを閉じ込めているものでもなく、
開けようと思えばいとも簡単に開けられるように感じられるのです。
今まで入ったことのない新しい世界への鉄扉……
その先に何の意味や発見があるのかまだ分かっていません。どんなものが出てくるのかも。
果たしてその追究って本当に大事?とも思ったり(笑)
けれども以前撮ったその不思議な写真、そこには法則性と可能性があるのではないかと私は睨んでいるのです。
もし私がその法則性と、「入って、安全に出ていくことが出来る」感覚という鍵を手にしているならば、
その先の世界(以前と同じく人ならざる何かの気配)が許し、通してくれるならば…
そして私自身の静かに燃え上がるような心持が消えない限り
その扉の向こうへ行かないという選択肢は無いと思っています。
2023.3.1